役
お芝居の台本には必ず「役」というものがあります。 物語を進めるにあたって役割が書かれている訳ですが、 ある意味「役」は「責任」ともとれます。 物語を伝えるという目的の為に、与えられた役割を務める「責任」。
しかし、これはなにもお芝居という特別な場だけに限った言葉ではありません。
役 役割 役目
普段、私たちは様々な「役割」を演じています。
母(父) 妻(夫) 会社員(色々ありますね) 友人 隣近所のおばさん(笑) 等々…
ではここにキャラクターもつけてみましょう。
優しい母 気立てのいい妻 気配りのできる会社員 明るい友人 気さくな隣のおばさん
どの役割でもキャラクターがだいたい一致している人は「裏表のない人」ということになるのでしょう。 しかし大抵は、多かれ少なかれ役割によってキャラクターを場の目的に応じて使い分けていることが多いのではないでしょうか。
さて、 この「目的」というのがとても重要です。
「目的」と「責任」が混同してしまうことがあるからです。 この二つは大きく違います。
端的すぎる言い方になりますが、 「目的」は内側からくるもの 「責任」は外側からくるもの と言えると思います。
「目的」はきっかけが外からだろうと、自分でゴールを定めることです。辞書には、
「行動を始めるに際して、最終的な成果として期待し、その実現に向かって努力しようとする事柄」とあります。
「責任」は役割を果たすこと。辞書には、
「自分の分担として、それだけはしなければならない任務(負担)」とあります。 (もちろん、責任それ自体が目的になることはありますが。)
期待と負担
期待は内から湧き出るものです。(→目的)
負担は外から課せられるものです。(→責任)
両者は大きく異なるのです。
皆さんは普段、どちらに基づいて「役割」を果たしていますか?
責任からの方が多いと感じたならば、「自分の感じ方」より「周り」を優先的に置いているのかもしれませんね。
何故こんなややこしいことを書いているのかというと。
子どもというのは「期待」に基づいて様々な役割(キャラクター)を日々創りあげているのが自然です。そうやって色々と試しながら、ゆっくりと人格を形成していきます。 しかし最近、子ども達が「負担(責任)」に基づいた役割を課せられている場面を目にすることがとても多いのです。
自分で決める(感じる)前に人格を定められてしまっている。
これはとても危険なことだと感じています。 抑え込まれた「人格」は後年一気に吹出すことがあるからです。
そして、子ども達はとても「責任感」が強いので、いつもいつも 「あなたは○○な子ね」 と扱われ続けると無意識にその通りの人格を演じ始めます。 それがポジティブな言葉だろうがネガティブな言葉だろうが、です。 素直に、健気に、それを感じ取ってしまうのです。
役者はそれを逆手に取り「役作り」という作業の際にキャラクターの扱われ方(外側の状況)を創ることから始めたりしますが、子どもは違います。 まだ「役割」は決まっていません。可能性は無限なのです。
「この子はこういう子」という固定観念を一旦置いて、 日々変わる子どもの感覚を遊ばせながら、レッスンで色々な「役」をある意味「無責任」に演じてみることは、可能性を広げる一助になると思っています。
無限にある色の中で何色を選んでいくのか、それが楽しみでなりません。