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子どもたちのプロセスや、気付いたこと、お知らせなど

教育

前記事からだいぶ空いてしまいました。 徒然にも程がありますね(笑)

さてここの所、とある教育機関へお邪魔しています。 そこで「教育」について感じることがあったので少し触れてみたいと思います。

教育現場は想像以上に大変。 そんな中で先生方は本当に頑張っておられ頭が下がります。 そう、とても「頑張って」いる。 その「頑張り」は子ども達にも当然届いています。

そして、 子どもたちの中に「ある意識」を感じ取るのです。それは、

潜在的な「大人」への敵対心

あれ?逆でしょ? 実は私もそう思いました。 しかし確実にそれを感じるのです。一見「いい子」に見える子にもそれを感じます。 貝の口のようにピタっと閉じて、まるで外から身を守っているようにも見えます。

さて ここで「大人」たちは何を「頑張る」のでしょうか。

「いいこと」「わるいこと」を教えることでしょうか。 道を間違えないように「正しい」地図を与えることでしょうか。

子どもたちの中には実に様々な「世界」が広がっています。 しかしそのエネルギーが強すぎて大人たちは強制することでコントロールしようとします。 動機としては、「正しく」「安全に」

でも考えてみて下さい。 子供の頃、「正しさ」にある種の退屈を感じてはいなかったでしょうか。 しかしいつの頃からか、 「正しさ」(正義)を盾に、刀を振るうようになってしまってはいないでしょうか。

今の社会はなにかを「教育する」という前提で成り立っているように思えます。 教え、育む。 「教」は機能しているように感じますが、「育」はどうでしょう。 子どもたちそれぞれのパーソナリティそのものを大切にし、栄養を与え「育んで」ゆく。 栄養がないまま育まれた植物は、実をつける前に枯れてしまいます。 それを本能的に知っている子どもたちは、栄養を取られないように「毒」を吐いて必死に外敵から身(実)を守っているように見えるのです。 この栄養こそが「想像力」ではないでしょうか。

「教」が刀になって「育んだ」芽を刈ってしまっては元も子もない。

正しさが成り立たないことに焦り、「教えること」に必死になる。 頑張りが「焦り」となって子どもたちにしっかりと伝わっています。 子どもたちはその刀からパーソナリティを守ろうと必死なのです。

「正しさ」は教えられません。 答えがひとつではないからです。

「教」と「育」のバランスを取りながら、それぞれの「答」という宝物を探してゆく。そして、

大人も「楽しむ」

簡単に答が見つかるゲームは面白くないですものね。

答を与える人ではなく共に探す人でありたい。 私が「講師」という名をなるべく使わない理由はそこにあります。(便宜上使うことはありますが)

私も「刀」を持った大人として、まだまだ模索中です。

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